「痛みが終われば/悲しくなれる」
――このアルバムに収録され、そして自分は復活後に生まれた彼らの楽曲群の中でも屈指の名曲だと思っている “I’ll be there”という曲の冒頭で、五十嵐隆はこう歌う。この痛みが過ぎ去った後に待っているのは満ち足りた愛や幸福ではなく、ただただ静謐な孤独に漂う、悲しみ。ラスト1分でリフレインし続ける「I’ll be there」という、現在を生きながらもどうしたって抱いてしまう「今ここではない、何処か」への希求も含め、syrup 16gの本質を彼らにしか生み出し得ない美しいメロディと音像をもって表した楽曲だと思う。
『darc』、すなわち「薬物依存症者のためのリハビリ施設」と名づけられた本作は、かなり衝動的な形で生まれたアルバムだ。
そもそも当時このタイミングでアルバムをリリースする予定はなく、「2016年秋のツアーに向けていくつか新曲を作ろう」と軽い気持ちでスタジオに入ったところから始まり、けれどいざ作り始めてみたら創作意欲が溢れ出して次々に曲が生まれてしまい、アルバムを作ることになった、と。しかもレコーディング中にもさらなる新曲が生まれてしまい、急遽スケジュールを調整してその曲=本作最後に収められた“Rookie Yankee”も録音することになり、けれど中畑大樹のスケジュールが合わなかったため、結果この曲に関してはドラムレスのアレンジになった、と。さらには、おそらく歌詞に託された感情の生々しさが大きく関係しているのだろうが、レコーディングの最終段階で歌を録ることが精神的に困難になり、仮歌として録音されていたものが採用されている、と。
つまりこのアルバムは、当時の五十嵐の衝動と心の叫びが非常に鮮度が高い状態のまま、生々しく作品化されたアルバムだと言っていいのだろう。そして、それ故に、syrup 16gという音楽の根源にある闇深い業がとても鮮烈に表出した作品になっていると思う。
syrup 16gというバンドの音楽に救われたと言うリスナーは、自分も含め、とても多いと思う。けれど、syrup 16gの楽曲には約束された幸福も、絶望を完全に払拭してくれるような絶対的な希望も、登場しない。とても美しく、時に甘美で陶酔的ですらあるメロディに乗せて歌われるのは、救済や解決が前提とされる苦悩ではなく、死ぬまで一生抱えていくことになると薄々勘づいている吐きそうなほどの不安と痛み、孤独と憤り、後悔とやるせなさ。安易な答えでピリオドを打つことも、きっと大丈夫だよとその場しのぎで誤魔化すことも決してしないまま歌われ続けるそれは、だからこそ、この息苦しく生きづらい日々に何よりもリアルで、何処よりも深く呼吸ができる居場所となる。
最近少しお休みしているけれど、復活後のsyrup 16gのライヴにおける3人の演奏は、解散前と比べて大きな深化が感じられるとても素晴らしいものだ。今やサポートドラマーとして様々なバンドやアーティストの現場で叩きまくっている中畑大樹の進化が大きいと思うのだけど、同期が当たり前になったこの時代、3人の生身の人間がギター、ベース、ドラム、そして歌だけに己の魂と衝動の限りを落とし込みながら生まれていくアンサンブルは、深度も精度も、表現力も説得力もおそろしく上がっていて、すべての音が生々しい存在感を持った上で見事に溶け合い、ソリッドでありながら豊潤なエモーションを宿した圧倒的な音像を描き出している。この『darc』には、そんな復活後のsyrup 16g音像がしっかりと結実していて、そういう意味でもとても聴きごたえのあるアルバムだと思う。
実は冒頭に引用した“I’ll be there”で、五十嵐はこうも歌っている。
――「痛みが終われば/優しくなれる」
もしかしたらそれが、相変わらず痛みや吐き気を伴うほどの苦しみが渦巻く日々を生き延びてきた中で、あるいは音楽という表現手段=解放手段を手に入れて20年以上の月日が経つ中で五十嵐が手に入れた、ひとつの安息の形なのかもしれない。
有泉智子(MUSICA)
――このアルバムに収録され、そして自分は復活後に生まれた彼らの楽曲群の中でも屈指の名曲だと思っている “I’ll be there”という曲の冒頭で、五十嵐隆はこう歌う。この痛みが過ぎ去った後に待っているのは満ち足りた愛や幸福ではなく、ただただ静謐な孤独に漂う、悲しみ。ラスト1分でリフレインし続ける「I’ll be there」という、現在を生きながらもどうしたって抱いてしまう「今ここではない、何処か」への希求も含め、syrup 16gの本質を彼らにしか生み出し得ない美しいメロディと音像をもって表した楽曲だと思う。
『darc』、すなわち「薬物依存症者のためのリハビリ施設」と名づけられた本作は、かなり衝動的な形で生まれたアルバムだ。
そもそも当時このタイミングでアルバムをリリースする予定はなく、「2016年秋のツアーに向けていくつか新曲を作ろう」と軽い気持ちでスタジオに入ったところから始まり、けれどいざ作り始めてみたら創作意欲が溢れ出して次々に曲が生まれてしまい、アルバムを作ることになった、と。しかもレコーディング中にもさらなる新曲が生まれてしまい、急遽スケジュールを調整してその曲=本作最後に収められた“Rookie Yankee”も録音することになり、けれど中畑大樹のスケジュールが合わなかったため、結果この曲に関してはドラムレスのアレンジになった、と。さらには、おそらく歌詞に託された感情の生々しさが大きく関係しているのだろうが、レコーディングの最終段階で歌を録ることが精神的に困難になり、仮歌として録音されていたものが採用されている、と。
つまりこのアルバムは、当時の五十嵐の衝動と心の叫びが非常に鮮度が高い状態のまま、生々しく作品化されたアルバムだと言っていいのだろう。そして、それ故に、syrup 16gという音楽の根源にある闇深い業がとても鮮烈に表出した作品になっていると思う。
syrup 16gというバンドの音楽に救われたと言うリスナーは、自分も含め、とても多いと思う。けれど、syrup 16gの楽曲には約束された幸福も、絶望を完全に払拭してくれるような絶対的な希望も、登場しない。とても美しく、時に甘美で陶酔的ですらあるメロディに乗せて歌われるのは、救済や解決が前提とされる苦悩ではなく、死ぬまで一生抱えていくことになると薄々勘づいている吐きそうなほどの不安と痛み、孤独と憤り、後悔とやるせなさ。安易な答えでピリオドを打つことも、きっと大丈夫だよとその場しのぎで誤魔化すことも決してしないまま歌われ続けるそれは、だからこそ、この息苦しく生きづらい日々に何よりもリアルで、何処よりも深く呼吸ができる居場所となる。
最近少しお休みしているけれど、復活後のsyrup 16gのライヴにおける3人の演奏は、解散前と比べて大きな深化が感じられるとても素晴らしいものだ。今やサポートドラマーとして様々なバンドやアーティストの現場で叩きまくっている中畑大樹の進化が大きいと思うのだけど、同期が当たり前になったこの時代、3人の生身の人間がギター、ベース、ドラム、そして歌だけに己の魂と衝動の限りを落とし込みながら生まれていくアンサンブルは、深度も精度も、表現力も説得力もおそろしく上がっていて、すべての音が生々しい存在感を持った上で見事に溶け合い、ソリッドでありながら豊潤なエモーションを宿した圧倒的な音像を描き出している。この『darc』には、そんな復活後のsyrup 16g音像がしっかりと結実していて、そういう意味でもとても聴きごたえのあるアルバムだと思う。
実は冒頭に引用した“I’ll be there”で、五十嵐はこうも歌っている。
――「痛みが終われば/優しくなれる」
もしかしたらそれが、相変わらず痛みや吐き気を伴うほどの苦しみが渦巻く日々を生き延びてきた中で、あるいは音楽という表現手段=解放手段を手に入れて20年以上の月日が経つ中で五十嵐が手に入れた、ひとつの安息の形なのかもしれない。
有泉智子(MUSICA)
まず、曲目見たら英字がずら〜っと並んでて、五十嵐どうした!?ってなりましたが(笑)
なんら特別な理由や要素があるわけではないようです。
オフィシャルでリリース情報が解禁されたときに、「『COPY』を今、作ろうという気持ちで作った」という触書きがあって。聴いてみて、なんだかわかるような気がしました。さらに繰り返し聴けば聴くほど、なるほどなって。
「生活」みたいな曲入ってないじゃん…とか、そういうことではなく。制作するにあたっての姿勢というか。
『coup d’Etat』以降の作品は、作品毎にトータルの色がはっきりしていて、それはきっとそういう色を作ろうという意図があったからなのだと思うのです。
『COPY』って、そんな意図とか打算がなくて。当時、五十嵐氏が誰の目を気にするでもなく無邪気に感情を詰め込めるだけ詰め込んだものだったのでしょう。それ故に混沌としていながらも、透明で、純度が高かった。
『darc』でも、同じことをしようとしてみたのではないかと。勿論、そこに意図は介在しているし、10数年経過しているわけだから、違うものになって当然なんですけど。
でも自分はこの感触に既視感があって、尚且つ陶酔出来たので。この狙いは成功だったんじゃないかと思うわけです。そんなわけで、とても好きです、この作品。
「あぁそっか、そうやってやればいいんだ。あぁなんだ、考えた事もなかった」
いつまでもそんな感じで生きてる気がするなぁ…..COPYの感じを今作ろうと言っていたのがなんとなくわかるような気がします
完全にタイミングを逃したが、このアルバムが好きだと言いたい。
7曲目唄入り前の上がり過ぎない上がり感が、らしくもあり、バンドの引力がハンパない。
生き急いでるような景色を、遠くから見せてもらったと勝手に思う。
いくら良い詩を読んでも、良い曲聞いても、フツーこんな風に思わないだろうよ。
そう感じさせるのは職人技なのかバンドマジックなのか、自分が少しおかしいのか。
なんにせよsyrup16g、やっぱスゴいと思う。
Syrup16gを聴いていると、あまりにも自分に馴染みすぎて、感じている世界の一部と化してしまうことがある。曲を聴いていることを忘れて、曲を再生しているにも関わらず他の曲を流そうとしてしまったことがあるくらいだ。
それくらいに馴染む。
名は体を表すように、syrup16gは「甘い」。
「自分に興味がない」とか言えちゃう。「これじゃない感」とか歌えちゃう。
悲しい、つらい、苦しい、といった人間的な弱さを吐いてしまえる甘さがある。
Syrup16gのそういう甘さが好きだ。
「報われない世界を 甘んじて受け入れた」
五十嵐隆の歌詞は、聴き手の絶望を受け入れる甘さがある。要するに優しいんだと思う。
聴いていると「これは自分のことを歌っている」と思う瞬間があるのは、syrup16gが聴き手を優しさという甘さで受け入れているからだ。
このアルバムもまた、聴いていくうちに馴染むようになっていく。
誰かに「このアルバムは最高」と薦めたくなる、と言うより、これは自分だけのために鳴っている音楽だ、と一人で信じ込むのがいいだろう。閉鎖的な聴き方が許されるのもまた、syrup16gの良さなのだから。
#1の鈍重なフロアタムから始まる本作が、このアルバムの全体的な方針を示してくれる。coup d’Etatで見せたような攻撃性、Copyの気だるいギターの単音など、Syrup16gのアルバムは一曲目の第一音がそのアルバムの自己紹介をしてくれている。
darcの方針は内面性。五十嵐隆がこれまでの人生で積み上げてきた悲しみとも言えないような鬱屈した気持ちを言語化して楽曲たちにまぶし、散らしている。
この歌詞はこんなことを言っているんじゃないか、いやいやこっちだ、という議論は全くの徒労に終わる可能性が高い。
彼のレンズから見るこの世、周囲、父、その他有象無象を彼なりに取り込んで、その「全体」を言葉として変換しているためだ。
#3の浮遊感の中にある具体的なメッセージのように、ずばりと言い当ててしまうこともあれば、メメントモらずなんて半笑いを浮かべながら歌っていそうな言葉遊びもしてしまう。掴み所がないのだ。
そういう意味では、Copyの再現を目指したとする取り組みは成功に終わったのではないだろうか。
両者とも、五十嵐隆本人の内面をラフスケッチのまま発露させたような生々しさと、独特のサウンドへのこだわり、彼を彼たらしめる要素がふんだんに盛り込まれているのだ。
垣間見ることができるのは、五十嵐隆の本質だ。