darc
2016.11.16 発売
UKDZ-0178
「痛みが終われば/悲しくなれる」
――このアルバムに収録され、そして自分は復活後に生まれた彼らの楽曲群の中でも屈指の名曲だと思っている “I’ll be there”という曲の冒頭で、五十嵐隆はこう歌う。この痛みが過ぎ去った後に待っているのは満ち足りた愛や幸福ではなく、ただただ静謐な孤独に漂う、悲しみ。ラスト1分でリフレインし続ける「I’ll be there」という、現在を生きながらもどうしたって抱いてしまう「今ここではない、何処か」への希求も含め、syrup 16gの本質を彼らにしか生み出し得ない美しいメロディと音像をもって表した楽曲だと思う。

『darc』、すなわち「薬物依存症者のためのリハビリ施設」と名づけられた本作は、かなり衝動的な形で生まれたアルバムだ。
そもそも当時このタイミングでアルバムをリリースする予定はなく、「2016年秋のツアーに向けていくつか新曲を作ろう」と軽い気持ちでスタジオに入ったところから始まり、けれどいざ作り始めてみたら創作意欲が溢れ出して次々に曲が生まれてしまい、アルバムを作ることになった、と。しかもレコーディング中にもさらなる新曲が生まれてしまい、急遽スケジュールを調整してその曲=本作最後に収められた“Rookie Yankee”も録音することになり、けれど中畑大樹のスケジュールが合わなかったため、結果この曲に関してはドラムレスのアレンジになった、と。さらには、おそらく歌詞に託された感情の生々しさが大きく関係しているのだろうが、レコーディングの最終段階で歌を録ることが精神的に困難になり、仮歌として録音されていたものが採用されている、と。
つまりこのアルバムは、当時の五十嵐の衝動と心の叫びが非常に鮮度が高い状態のまま、生々しく作品化されたアルバムだと言っていいのだろう。そして、それ故に、syrup 16gという音楽の根源にある闇深い業がとても鮮烈に表出した作品になっていると思う。

syrup 16gというバンドの音楽に救われたと言うリスナーは、自分も含め、とても多いと思う。けれど、syrup 16gの楽曲には約束された幸福も、絶望を完全に払拭してくれるような絶対的な希望も、登場しない。とても美しく、時に甘美で陶酔的ですらあるメロディに乗せて歌われるのは、救済や解決が前提とされる苦悩ではなく、死ぬまで一生抱えていくことになると薄々勘づいている吐きそうなほどの不安と痛み、孤独と憤り、後悔とやるせなさ。安易な答えでピリオドを打つことも、きっと大丈夫だよとその場しのぎで誤魔化すことも決してしないまま歌われ続けるそれは、だからこそ、この息苦しく生きづらい日々に何よりもリアルで、何処よりも深く呼吸ができる居場所となる。

最近少しお休みしているけれど、復活後のsyrup 16gのライヴにおける3人の演奏は、解散前と比べて大きな深化が感じられるとても素晴らしいものだ。今やサポートドラマーとして様々なバンドやアーティストの現場で叩きまくっている中畑大樹の進化が大きいと思うのだけど、同期が当たり前になったこの時代、3人の生身の人間がギター、ベース、ドラム、そして歌だけに己の魂と衝動の限りを落とし込みながら生まれていくアンサンブルは、深度も精度も、表現力も説得力もおそろしく上がっていて、すべての音が生々しい存在感を持った上で見事に溶け合い、ソリッドでありながら豊潤なエモーションを宿した圧倒的な音像を描き出している。この『darc』には、そんな復活後のsyrup 16g音像がしっかりと結実していて、そういう意味でもとても聴きごたえのあるアルバムだと思う。

実は冒頭に引用した“I’ll be there”で、五十嵐はこうも歌っている。
――「痛みが終われば/優しくなれる」
もしかしたらそれが、相変わらず痛みや吐き気を伴うほどの苦しみが渦巻く日々を生き延びてきた中で、あるいは音楽という表現手段=解放手段を手に入れて20年以上の月日が経つ中で五十嵐が手に入れた、ひとつの安息の形なのかもしれない。


有泉智子(MUSICA)

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“darc”のレビュー

  1. 大学3年生の時にsyrup16gに出会って、かれこれ14年間聞き続けている。再結成後のアルバムをじっくり聞き込むことなく、ここまで来たが、最近darcばかりを聴くようになった。1曲目は重々しいドラムから始まり、ケチャのような気だるげなバックコーラスに、まるで念仏かのように、淡々と諸行無常が歌われる。後半でついにメメントもらずと歌い始め、はっとする。死に思いを馳せるなんて、もう飽き飽きなんだ。死を考えないことこそが、私たちには必要なのかもしれない。