静脈
2006.08.23 発売
UKDZ-0052
『静脈』で思い出すのは、syrup16g presents "UP TO THE WORLD #2 静脈"。今は無きSHIBUYA-AXで、リリース直前に行なわれたもの。前日の〈動脈〉と同じで、ほぼ収録順のセットリストで進んでいく。シロップのライヴだが、諦めや絶望のような感情に共感する以上に、このバンドが持つメロディの美しさや、五十嵐隆というソングライターのセンスが前に出ていた記憶がある。『動脈』と『静脈』。この2枚のベスト・アルバムは、この頃ライヴでは毎回のように披露していた新曲を、なかなか音源リリースしようとしない彼らに業を煮やしたところもあるだろうが、ベスト・アルバムという形を取ることで、楽曲の良さ、みたいなものを改めて確認することができた側面がある。もちろんバンドを知るきっかけとしても良かった。しかし!だ。何でライヴの思い出を書いてるかというと、この日のアンコールに出てきた五十嵐が、弾き語りで披露したタイトル未定の曲が忘れられないからだ。この日、観に来るはずだったが来れなくなった父親を思い、昨日徹夜で作った1曲は、死と別離と寂しさが混沌としていて、その個人的な感情だけが突き刺さるもの。こういう彼の生の感情は、ひとりだと圧倒されるだけだが、バンドで鳴らされることによって、強い共感を生んでいく。この曲は後に「夢からさめてしまわぬように」となってラスト・アルバムに収録されることになるが、『静脈』そして『動脈』に収録された楽曲たちと、この弾き語りで感じたリアルの温度差は、五十嵐にとってバンドがどうして必要なのか、それがよくわかるものだった。そう、『静脈』そして『動脈』には、五十嵐とこの世界が通わせている血が脈打っているのだ。


金光裕史(音楽と人)

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“静脈”のレビュー

  1. 初めてシロップのライブを見たのは2006年8月3日。渋谷AXでの静脈の日
    アルバムはヘルシーしか持っていない。メンバーの顔もよく分からない。でも見てみたい
    そう思った時にはチケットはとっくに売り切れていて、それでも諦め切れずに開演の何時間も前に手ぶらで会場に向かった
    友達が行けなくなって困っていたという知らないおじさんに譲って貰って、初めて観たシロップのライブはどっちかと言わなくても地味だった
    照明は暗いしメンバーが着てるのは派手な衣装でもない、MCだってそんなに盛り上がらない
    嘘みたいに客席は静まり返っていて、五十嵐がペットボトルの水を飲む音だけがはっきりと聞こえた
    でもびっくりするくらい心を鷲掴みにされた
    その日のセットリストはベストアルバムの静脈に収録されている曲を中心に構成されていた
    最初の曲のイントロで客席が湧いたのが分かった。『Reborn』だった
    『明日を落としても』を聴いている間、私は夜の滑走路に居て飛行機が離陸していくのを見た気がした。風なんか吹いていなかったけど風が吹いているのを感じた
    心の中にある自分だけの誰も入って来られない場所にまでシロップの音楽が入り込んできたような気がした
    アンコール後のMCで喋り出す前に一瞬だけ五十嵐が客席をじっと見ていた。何かを見透かされているような気がして下を向いた
    ライブの翌週からしばらくやっていなかったアルバイトを始めた
    シロップのCDとライブのチケットを買うためだ
    次のライブも行った。行けるライブには全部行った
    スケジュール帳に次の予定を書き込んでそれを眺めながら過ごした
    毎晩寝る前にCDコンポに耳をくっつけて好きな曲を順々に聴いた
    シロップのことを世界で一番好きなのは私だと思っていた
    今でもそう思っていられるのが嬉しい

  2. ≪君がなりたいというのなら/君でいれないというのなら/無視しきれないとまどいに/転がされてけよ もう一生≫(I.N.M)
    ≪通信簿に書かれたよ 協調性に欠けてます なんて≫(センチメンタル)
    ≪道だって答えます 親切な人間です/でも遠くで人が 死んでも気にしないです≫(ex.人間)

    五十嵐隆という人が作る歌に、自分の苦悩や絶望感、やり場のない思いを重ねてきた人は多いだろうが、本来それは私達の片想いである。なぜなら、彼の歌は基本的には他者に発信するために書かれたものではなく、彼の持つ被害者意識や受け入れがたい人生への叛逆心を、自嘲を込めて書いたパーソナルなものであるからだ。
    しかし、それらの歌がここまで私達の心の奥底の、他者に踏み込ませたくない領域でこそ響くのは、彼の個人的な絶望や現実への拒否反応といったものが、普段人に見せないだけで誰もが抱える普遍的感情であるからだ。そして、そうした嘲りやルサンチマンを抱えながらも、最後の最後では「希望や未来を信じたい」という前向きな思いを、彼も私達も、捨てられないのである。

    私が初めて聴いたsyrup16g(以下、シロップ)の曲は確か”生活”だったと思う。当時、前を向こうとポジティブさを高らかに歌う歌や、青春をパワーコードで勢いよくかき鳴らす歌が周囲に溢れる中、不思議な曲だという印象を持った。ロックらしい疾走感もあるし、スリーピースというベーシックな構成のバンドなのに、明らかに「これまで自分が聴いていたものと異なるものを見つけた」という感覚があった。カーテン一枚を隔てた向こう側から演奏されているような顔の見えなさというのか、不安感というのか。
    今にして思えばこの、シンプルで比較的明るい音選びにも関わらず、諦念を湛えた独特なコード感と≪君に存在価値はあるか/そしてその根拠とは何だ≫という自己肯定感の低い言葉選び、これこそがカーテンの向こう側の正体、シロップのシロップらしさだったのだと言えるだろう。
    ハイポジションを効果的に配置するなどして不穏さやサイケデリックさを印象づけるベースが印象的な“神のカルマ”、”Sonic Disorder”ではグルーヴのあるリズムで疾走し、破滅へ突き進むさまをソリッドに鳴らす。
    “I.N.M”や”ex.人間”に特徴的な寂しく無機質なイントロは自身の虚無感を形に表したように感じたし、”翌日”や”明日を落としても”といった曲で特徴的な清涼感と倦怠感をないまぜにしたようなシューゲイザー的なギターサウンドは、諦めと諦めたくない、が同居する矛盾を音にしたようだった。
    そしてこれらの楽曲に自嘲や罪悪感といった五十嵐隆の感情が付帯することで、どの曲もがシロップの楽曲としてのアイデンティティを確立している。

    私も孤独感や無力さに打ちひしがれては、このバンドの楽曲と幾度も自分の中に引きこもってきた。齢まもなく三十になろうという私は、今この文章を『静脈』を聴きながら書いている。自分の十代、二十代の暗鬱で、他人への寄りかかり方を知らなかった日々に、救いを求めて幾度となく再生してきた一枚だ。歳を重ねて、社会での振る舞い方もそれなりに分かってきて、いつかは聴かなくなっていくのかな、なんて思っていた私は、手に取る頻度こそ変わりはすれ、今日もこのアルバムを一人部屋でかけている。
    本来シロップはアルバム毎に特色のあるバンドなので、ベスト盤である本作よりも、各作品を推すべきなのではあろうと思う。だが、数ある楽曲から選出され、ある意味で諦念感の純度がより高められたこの『静脈』に、日々の絶望への共依存とその先にあって欲しい一縷の未来を期待して、今日も私は手を伸ばしてしまうのだ。

  3. 当時UP TO THE WORLD #2 2days行きました。
    それが私にとって現状で最後の生シロップ。
    CDもDVDも買い続けてるけど、なんでかなロックコンサート自体全く行かなくなったのだ。
    最後だけどお互い生きているうちは最期じゃないからね。
    アンコールの「夢からさめてしまわないように」を今でもよく覚えているよ。