人はいつだって幻ばかりを愚かなまでに、儚げに求め続ける。
現実世界から幻に逃げているのか、現実を直視しながら幻を追い求めるのかわからないけど、いつだって僕らは幻に魅了され続けている。
それが音楽なのかスピリッツなのかよくわからないロックという観念も幻という事象の最たるもので、だからこそロックはいつだって僕らをくすぐり続けるし、バンドなるものもまた然りだ。
1曲目“光のような”を僕は、このアルバムのリリースよりも随分前に聴かせてもらった。というか、この曲の当初のレコーディングに立ち会ったことがある。だけどその音源は陽の目を見なかった。何故ならば、それはsyrup16gではなく犬が吠えるという五十嵐くんのソロプロジェクトで、数回のライヴを行ったことはあるものの、このプロジェクトは半ば本当の意味での幻で終わってしまったからだ。
なんで五十嵐くんはあのプロジェクトが本格始動する前にやめてしまったのだろう? ずっとわからなかったけど、きっと彼にとってソロというのは幻とは正反対の「ただのつまらない実体」だったんじゃないかと今は思う。そのこと自体がsyrup16gの復活に大きく起因しているんじゃないかと、この『delaidback』のインタヴュー時に感じたことを思い出した。
一度解散したけど、解散以前よりも今の方がsyrup16gをバンドとして感じる。以前よりも精力的に活動していないし、実際にこのアルバムの一連の動きが終わってから、バンドも五十嵐くんもずっと世の中には出て来ていない。一度呑み屋で偶然会って朝まで話し込んだけど、とても楽しそうだったから、まだ彼は出てこないんじゃないかな。
だけどバンドというのはきっと、リリースしているとかツアーをやっているとか、根本的にはそういうもんじゃないんだと思う。家族でも友情でもない、絆ともきっと違う幻のようなもので、その幻がそのバンドやロックの中にあるかどうかが重要なんじゃないのかなと思う。syrup16gは今は活動していないけど、でも前以上に今はその幻が確かなものとしてある気がして、それが重要なんじゃないかと思う。
“光のような”というタイトルも、どこかおかしい。言ってみれば光というもの自体が「のような」という言葉にふさわしい曖昧で実体のない、この原稿の中で言えば幻に近いもので、その「のような」ものにさらに「のような」という言葉を重ねるのは、どうにもおかしい。だけど、これこそが五十嵐くんであり、syrup16gであり、ロックであり、バンドであり、幻そのものかもしれない。
隠れベストとか集大成的な意味合いが含まれているアルバムだし、それに相応しい名曲がたくさん詰まっている名作。ある意味作品をリリースすること自体が苦しみそのものになっているsyrup16gとしては異色な、肯定力が表立った珍作だとも言えるし、今後への期待を込めて希望に溢れた美作とも言える、どちらにせよとても重要な「最新作」。
鹿野 淳(MUSICA)
現実世界から幻に逃げているのか、現実を直視しながら幻を追い求めるのかわからないけど、いつだって僕らは幻に魅了され続けている。
それが音楽なのかスピリッツなのかよくわからないロックという観念も幻という事象の最たるもので、だからこそロックはいつだって僕らをくすぐり続けるし、バンドなるものもまた然りだ。
1曲目“光のような”を僕は、このアルバムのリリースよりも随分前に聴かせてもらった。というか、この曲の当初のレコーディングに立ち会ったことがある。だけどその音源は陽の目を見なかった。何故ならば、それはsyrup16gではなく犬が吠えるという五十嵐くんのソロプロジェクトで、数回のライヴを行ったことはあるものの、このプロジェクトは半ば本当の意味での幻で終わってしまったからだ。
なんで五十嵐くんはあのプロジェクトが本格始動する前にやめてしまったのだろう? ずっとわからなかったけど、きっと彼にとってソロというのは幻とは正反対の「ただのつまらない実体」だったんじゃないかと今は思う。そのこと自体がsyrup16gの復活に大きく起因しているんじゃないかと、この『delaidback』のインタヴュー時に感じたことを思い出した。
一度解散したけど、解散以前よりも今の方がsyrup16gをバンドとして感じる。以前よりも精力的に活動していないし、実際にこのアルバムの一連の動きが終わってから、バンドも五十嵐くんもずっと世の中には出て来ていない。一度呑み屋で偶然会って朝まで話し込んだけど、とても楽しそうだったから、まだ彼は出てこないんじゃないかな。
だけどバンドというのはきっと、リリースしているとかツアーをやっているとか、根本的にはそういうもんじゃないんだと思う。家族でも友情でもない、絆ともきっと違う幻のようなもので、その幻がそのバンドやロックの中にあるかどうかが重要なんじゃないのかなと思う。syrup16gは今は活動していないけど、でも前以上に今はその幻が確かなものとしてある気がして、それが重要なんじゃないかと思う。
“光のような”というタイトルも、どこかおかしい。言ってみれば光というもの自体が「のような」という言葉にふさわしい曖昧で実体のない、この原稿の中で言えば幻に近いもので、その「のような」ものにさらに「のような」という言葉を重ねるのは、どうにもおかしい。だけど、これこそが五十嵐くんであり、syrup16gであり、ロックであり、バンドであり、幻そのものかもしれない。
隠れベストとか集大成的な意味合いが含まれているアルバムだし、それに相応しい名曲がたくさん詰まっている名作。ある意味作品をリリースすること自体が苦しみそのものになっているsyrup16gとしては異色な、肯定力が表立った珍作だとも言えるし、今後への期待を込めて希望に溢れた美作とも言える、どちらにせよとても重要な「最新作」。
鹿野 淳(MUSICA)
母が死んで何日目かの朝。
父と車の中で聴いた「光のような」が酷く胸に刺さった。母もそうだし、自分達も脆く光の様に儚い存在である事を何となく感じた。それでも誰かの為に生き続けなければいけない。生活は至って平坦に続く。
syrup16g は僕達のふとした隙間の足りない部分を埋めてくれる。
delayedシリーズ第3弾。タイトルの語呂のセンスも流石です。
delayedシリーズの位置付けは、delayedeadを聴いてたときはエビセンが鮮烈過ぎて「タイムマシーンだな」って思ってました。で。delaidbackを聴いた頃には「走馬燈だな」って。公演の副題に『冥土』とか付けるからですね(笑)
今作も未リリース楽曲集ではありますが、今までと異なるのは、デビュー前〜COPY期の曲だけではないということ。delayedeadリリース後→解散→犬が吠える→生還…と、多くのファンに目撃されながら、世に放たれず闇に葬り去られそうになっていた、待望の曲たちが大半を占めているわけです。
そう言いながらも、却って初期に作られた楽曲が際立って光っているように、個人的には感じました。
「開けられずじまいの心の窓から」「4月のシャイボーイ」「光なき窓」。これらの楽曲には、聴き手への意識などというものは介在していないように見受けられます。アレンジにも五十嵐氏の趣味がモロに出ているようだし。イノセントとはこういうことなのだろうな、って。このような手触りの曲は、この時期にしか生まれ得なかったのではないかと思います。
今作の後、活動休止を経て、2020年現在ライブ活動は再開しているものの、長いこと音源の発表はありません。
この流れはdelayedead→1次解散の時と非常に似ているんですが。心配感は無いですね。ライブを観る限りは調子良さそうですし。
次回作が楽しみです。
五十嵐氏を焦らせても何も良いことはないでしょうから(苦笑)、delaidbackも含め過去作を何度も聴き返しながら、気長に待つこととしましょう。
発表当初は「あの曲が入ってない…….」とか舐めた感想を言っていた僕でごめんなさい。
昔聴いた名曲の数々も最高で、聴いたことなかった曲も更に最高で…….現在進行形が多分大丈夫だと、五十嵐さんの奇跡はまだまだ使い果たされてなんかいないんだなと思いました。4月のシャイボーイの再生回数がヤバいです 笑
わたしは、今、しんどい。
ひとりぼっちでしんどい。
どうしようもない26歳になったと、くるしい。
だから、このアルバムにすがっている。
知る人ぞ知る幻の名曲として、語られてきた曲たちが、世の中に放たれることとなったこのアルバム
どの曲にも、どうしようもない遣る瀬無さが。
救いようが無いというか、救われたいとも思ってない感じに、どうにもこうにも心が揺さぶられ、独特のメロディは、つい、繰り返し聴いてしまうような強烈な引力を持っています。
五十嵐さんが撮影したというジャケットの写真からは、西條八十の「蝶」という詩を連想してしまいます。
私も、この詩のように、一生、蝶を追うようにsyrup16gの曲を聴き続けていくのだと思います。