HELL-SEE
2003.03.19 発売
COCP-50704
「HELL-SEE」によせて

この作品の中でも

人は、努力して人間性を獲得していく。

そして、この作品の中では

世界に“解決”というものはなく、あるのは保留という選択も含めた“決断”だけである。

なぜ“解決”がないか、それは、そもそもそこに“問題がない”からである。

世界や自分に期待せず、買い被らない。見くびることもなく、軽蔑もない。
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今が永遠に続いたらいいのに、という青春のクリシェは、時に来世を迎えても逃れることができない呪いのようなものを想起させる。
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人は、努力して人間性を獲得していく。これが何なのかも知らないまま人生は始まり、結局何もわからないままに人生は終わる。

目に見えず、耳に聞こえず、触れることもできない、あるのかないのかわからない何か。

その何かを“在る”と信じ、言葉を発し、振る舞い、生きる。これを宗教と言います。
人間がよりよく生きようとする時、そこには宗教的な行動が付いてくる。平和、愛、自由、なんでもいい。
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syrup16gの中でも、特に「HELL-SEE」は、いま聴かれるべき作品だと思います。
この15曲を聴いた後、ほんの些細なことでもいい、あなたは何かしか“決断”をし、それを実行する。
形は変われど、美味しいお蕎麦屋さんに行く“今度”がやってくる。
もう、未来は変わり始めている。


小林祐介(THE NOVEMBERS)

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“HELL-SEE”のレビュー

  1. syrup16gを聴くようになってもう16年程経っていたことに驚いた。
    16年前は大学生だった私も今やアラフォーだ。
    三十代いくまで生きてるのか? と、私も本気で思っていたのだけれど、それも遥か昔の話になってしまった。
    16年の間にsyrup16gの他にも色々なバンドの曲を聴いたり、音楽に限らず絵画や文章、漫画にゲームその他多くの『作品』と呼ぶべきものやコンテンツに触れた。
    歳をとった所為にしたくないとどれほど思おうとも、やはり若かりし頃の感性は大分枯れてしまったと実感している。
    そんな昨今、しみじみsyrup16gは(正確にはvoの五十嵐隆という表現者は)恐ろしい人だな、と思うようになった。

    恐怖というか畏怖に近い。
    というのも、歌詞にも曲にも「わかってくれ」というメッセージがないのは異常だと思ったのだ。
    「わかって」のみならず「助けてくれ」「救ってくれ」「寄り添ってくれ」というような、そういう他者からの感情を一切求めていないぞこれは、と。
    「俺の痛みはコレとコレ、あとコレ」って陳列してるだけなんだなと、この歳になってようやく気付いた。
    他者が入り込む余地がない。共感するなら勝手にすればいいけど、俺はお前の痛みとか知らないから、みたいな温度感。
    そういう聞き方・聞こえ方を以前からしている人にしてみれば「何を今更」と思われるかもしれないが、これに気付くまで私は十数年を要した。

    syrup16gの曲(歌)を聞いた他者の「共感しました。私の為の曲かと思った、泣きました。私も実は昔こんなことが……」という語りを曲(歌)自体は実は一切受け付けていない。
    おそらく書いた本人含むメンバーも受け付けていないんじゃないかなと思う。
    それは冷たいとかじゃなくて、語弊や勘違いを恐れずいうならば、syrup16gの世界において、完全な他者の痛みや共感は害になりこそすれ、創作の餌(動機と呼ぶべきか)にはならなかったんだろうなと思うのだ。

    他者の声に耳を貸すタイプや、自分の痛みを曝け出して「こんなに痛かったんだ!」と他者に見せることを意識するタイプのクリエイターは多くいると思うし、優れた作品も多いだろう。
    私はそういう作品も好きだと思うし、否定なんてするつもりはないのだけれど、その「他者を少しでも意識した」姿勢では、syrup16gの表現足り得なかった。
    syrup16g解散当時によく目にし、語られていた「ポストシロップ」という単語が一度たりとも定着しなかったのは「他者を意識した瞬間にsyrup16g的ではなくなる」という側面も大きかったのではないだろうか。
    誰かに認められたい、許されたい、同意してほしい、側にいてほしい。
    いわゆる承認欲求と呼べるそれらの感情は誰しも――少なくとも大多数が持っている。
    それを徹底的に作品から切り離すというのは至難の技だ。
    syrup16gの歌詞はそれを成し得てしまった。
    だからsyrup16gの歌詞の表現は聞けば聞くほど冷たくて、手を伸ばしても絶対に掴めないとわかってしまう。

    HELL-SEEの発売後の雑誌のインタビューで「月は女性的だ(だから掴むことができない)」と五十嵐さんがかつて言っていたと記憶しているけれど、何よりも掴めないのは女性じゃなくて五十嵐さんの歌詞世界だと今は思っている。
    リスナーはその冷たい温度に酔い、時によっては長年勘違いして「安定剤だ宗教だ」なんて崇めたりする。
    ライブの熱狂もその冷たさを損なうことはない。
    真実冷たいが故に、ライブの熱を更に熱く感じていたのではないかと今となっては思う程だ。

    私は平凡な人間だ。歳をとったらオールスタンディングのライブはキツいと思うようになった。
    曲や歌詞の捉え方も変わったし、これから感性はきっともっと枯れてしまうのだろう。
    けれど、まだ私はsyrup16gの曲を聴くし、これからも聞こえ方は変わっていくだろうということもわかる。
    それはちょっとだけ寂しくも感じるけれど、とても幸せなことだと今は思っている。

  2. 今年三十歳になって最近お気に入りのお蕎麦屋さんを見つけました。HELL-SEEがリリースされた頃はまだ学生で、なぜ蕎麦屋なのかピンときていませんでしたが今は少しだけ解る気がします。
    他人の考察も知りたくてグーグルで「お蕎麦屋さん syrup16g」で検索したら小林さんの2011年10月23日のブログにたどりつきました。そしてここにも。

  3. よくシロップは暗いとかネガティブとか言われることがあるが、私はそうは思わない。
    死にたい、と人が思う時、実際には生きている自己を確認しているのと同様、絶望や病理に寄り添うことで希望に手を伸ばすことができるという逆説的な考え方がsyrup16g(五十嵐隆)にはあると思う。
    HLL-SEEには「もったいない」「ex.人間」「正常」のような救いがたい楽曲も並んでいるが、「月になって」の切なさ、「ローラーメット」の滑稽さなど様々な表情があり、最後の「パレード」は、葬列の歌でありながら希望を感じさせる。全然素直でないけれど、結局は前向きなアルバムだと思っている。
    そういえば「I’m劣生」で「30代いくまで生きてんのか俺」と歌った五十嵐さんが今月無事に46歳を迎えた。今後もマイペースで健康(HELL-SEE)に生き続けてくれることを願う。

  4. 「ちゃんとやんなきゃ」
    結局はそう生きてしまいました。
    その結果がわたしです。

    中高生のころ、syrup16gを好きだと他人に言えなくてすみません。自分の中身がバレるようで怖かったです。だいぶ神経が図太くなったけど今もちょっとだけ怖いです。

    どこに辿り着けばよいのか分からないのは、これから先もたぶんずっとそうだけど、
    これだけはと願うことがあって、それは優しく在りたいということです。
    幸いわたしたちにはsyrup16gがいます。
    syrup16gがいてよかったです。
    活動再開、本当にありがとうございます。

    きっとまだまだ何年もかかるけど、優しく在ることができたとして、その生活に、syrup16gの音楽がいてくれますように。
    これからも末永くよろしくお願いします。

  5. 大切な1枚。
    ふとした時に聴きたくなる傑作です。

    ダウナーなサウンドにダウナーな歌詞が極まり。
    でもパレードが終わったら心が落ち着く。
    そんな1枚です。