delaidback
2017.11.8 発売
UKDZ-0190
人はいつだって幻ばかりを愚かなまでに、儚げに求め続ける。
現実世界から幻に逃げているのか、現実を直視しながら幻を追い求めるのかわからないけど、いつだって僕らは幻に魅了され続けている。
それが音楽なのかスピリッツなのかよくわからないロックという観念も幻という事象の最たるもので、だからこそロックはいつだって僕らをくすぐり続けるし、バンドなるものもまた然りだ。

1曲目“光のような”を僕は、このアルバムのリリースよりも随分前に聴かせてもらった。というか、この曲の当初のレコーディングに立ち会ったことがある。だけどその音源は陽の目を見なかった。何故ならば、それはsyrup16gではなく犬が吠えるという五十嵐くんのソロプロジェクトで、数回のライヴを行ったことはあるものの、このプロジェクトは半ば本当の意味での幻で終わってしまったからだ。
なんで五十嵐くんはあのプロジェクトが本格始動する前にやめてしまったのだろう? ずっとわからなかったけど、きっと彼にとってソロというのは幻とは正反対の「ただのつまらない実体」だったんじゃないかと今は思う。そのこと自体がsyrup16gの復活に大きく起因しているんじゃないかと、この『delaidback』のインタヴュー時に感じたことを思い出した。

一度解散したけど、解散以前よりも今の方がsyrup16gをバンドとして感じる。以前よりも精力的に活動していないし、実際にこのアルバムの一連の動きが終わってから、バンドも五十嵐くんもずっと世の中には出て来ていない。一度呑み屋で偶然会って朝まで話し込んだけど、とても楽しそうだったから、まだ彼は出てこないんじゃないかな。
だけどバンドというのはきっと、リリースしているとかツアーをやっているとか、根本的にはそういうもんじゃないんだと思う。家族でも友情でもない、絆ともきっと違う幻のようなもので、その幻がそのバンドやロックの中にあるかどうかが重要なんじゃないのかなと思う。syrup16gは今は活動していないけど、でも前以上に今はその幻が確かなものとしてある気がして、それが重要なんじゃないかと思う。

“光のような”というタイトルも、どこかおかしい。言ってみれば光というもの自体が「のような」という言葉にふさわしい曖昧で実体のない、この原稿の中で言えば幻に近いもので、その「のような」ものにさらに「のような」という言葉を重ねるのは、どうにもおかしい。だけど、これこそが五十嵐くんであり、syrup16gであり、ロックであり、バンドであり、幻そのものかもしれない。
隠れベストとか集大成的な意味合いが含まれているアルバムだし、それに相応しい名曲がたくさん詰まっている名作。ある意味作品をリリースすること自体が苦しみそのものになっているsyrup16gとしては異色な、肯定力が表立った珍作だとも言えるし、今後への期待を込めて希望に溢れた美作とも言える、どちらにせよとても重要な「最新作」。


鹿野 淳(MUSICA)

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“delaidback”のレビュー

  1. 誰かがどこかのレビューで、傑作の連打、というようなことを言っていて、まさにと思います。
    復活後の新譜を聴く度に、この人、まじか…と思う。
    才能無限なのかなって。
    信じられない思いです。
    とにかく大好きだってことを伝えたい。

  2. シロップへの想いを言葉にする事なんて、絶対にできないと思った。今も思う。
    でも、でも…。このバンドへの、その曲への、どうしようもない愛を前提として…

    これから言う事は全て、私自身の主観です。

    ・・・

    泣いて、たくさん泣いて、泣きはらした、涙も涸れた。そのあとで、

    どこを目指すでもなく、何を見つめるでもなく、何かを、もしくは全てを、失ったままで

    ただ、何となく、…微笑んでいる。

    走らない。走れない。そんな力は、もうない。
    けれども、止まらない、止まれない。歩くしかない、今は。ゆっくりと。

    止まろうと思った。止めようと思った。なのに、どうしても、止まれなかった。
    止まるのにも実は、力が要る。そんな力はもうないし、

    得る必要もない力、なのかもしれない。本来は。

    変えるにも、止まるにも、もう遅い。
    だから、ただ、生きている。

    希望でもない、絶望でもない。ただ淡々と、
    周囲の人たちと、静かに笑い合いながら、それでいて
    何か絶対に相容れないものを、自覚し合いながら。

    今までの幸せとは違う幸せに失望しながらも、受け入れながら、
    噛みしめながら、しかし、あくまでゆるやかに。おだやかに。

    ただ、生きている。

    その中の、感情の機敏。夢。滑稽さ。
    退廃めいた、けれども心地よい、地に足のついた、…浮遊。

    そんな曲たち、音たち…が、どうして作れるのだろうか、
    鳴らせるのだろうか、この人は、この人たちは。

    「透明な日」の冒頭から鳴っている
    ギターのアルペジオとか…幾度も言われている事だけど、本当に
    どうしてあんな凄いのが出てくるんだろう。
    そして、跳ねる、うねるベースラインや、
    力強く支える、華を添えるドラムも、個人的にツボすぎる曲、多数。

    もし、初めて彼らの曲を聴いたその時、何かに疲れていたとしたら、
    きっと、より一層、惹かれてしまうはず…。

    しかし、それは不思議と、歩く力にもなっていくはず。

    とりあえず、落ちた時も、ちょっと希望が見えてる時も、
    珍しく元気な時も、こんなにも、いつでも聴ける音楽は
    今の私には、シロップだけ。

    …一旦言葉にしようとしてみたら無駄に長くてすみません。
    主観すぎて妄想すぎて自分すぎてすみません…。
    こんなものはレビューとして適切ではないと思いますが、もう私の中では唯一無二すぎて。

    とにかく、もっと聴かれてほしいです。

    休んでいてもいい、止まらないでいてくれて、
    断たないでくれて、ありがとう。本当に。

  3. 透明な日を聞くと、うだるような炎天と蝉の声で埋め尽くされた8月の田舎のバス停を、
    赤いカラスを聞くと、廃ビルの屋上で真っ赤な夕焼けに照らされた烏を想像します。

  4. 停留所に 年老いた老人が
    独りで寝ているように 待っていた
    ああ そのバスは今日も来ませんか

    「透明な日」の歌詞の一部だ。
    ここで言われている「バス」とはなんだろうか。
    僕は、未来や夢や、「このどん詰まりから自分を連れ出してくれるもの」の隠喩だと感じた。
    ネットで、「バス」は死の隠喩だという意見も見たことがある。
    いずれにせよ、人間の人生をこんなに短いフレーズで言い表している歌詞はそうそうない。
    待てども待てどもバスは来ない。そうやって一日が過ぎ、また年老いていく。引きこもり気質の人間に限らず、一見精力的に活動して日々を過ごしている人間も、実は「バス」を待っている人なのかもしれない。
    この曲のすばらしいのは、同じ歌詞を繰り返すだけ、同じコードを繰り返すだけで一曲を成立させてしまっていること。
    少ない情報量でも、そこに音楽の核心がすべてが詰まっていると感じさせる。流行には逆行してるけど、純粋に音楽のよさを感じるのはこういう曲。
    「これぞsyrup16g」という象徴的な1曲だと思う。