このアルバムは、第1期syrup16g完結、と謳われた。よって、これまでの楽曲の中から、未発表だったものや初期音源のリメイク、デモテープでしか存在してなかった曲が多くレコーディングされており、本気ですっからかんになろうとしたフシがある。それは2002年の『delayed』と同じコンセプトだが、大きく違っているのは、それ以降、躁状態のように新作をコンスタントに出してきたバンドが、この作品の後はぱったり音沙汰がなくなり、次のオリジナルは、4年後のラスト・アルバム『syrup16g』となったことだ。そのラスト・アルバムのレコーディングはメンバーそれぞれのパートがバラバラに行なわれ、バンドとしての体をほぼ生していなかったことを考えれば、実質このアルバムが、バンドとして血が通った最後の作品だったと言っていい。そしてすっからかんになることで、五十嵐は、まだここから何かを生み出せるはずだと、あえて自分を追い込もうとしていたんだと思う。ゆえにこのアルバムには、青さの臨界点、のようなところがある。だが、もうそうなりきれないと思ってしまったからこそ、五十嵐は何も書けなくなってしまい、バンドを終わらせる決断をすることになった。その前段階の、どんなバンドも真似できない純粋さと、ギリギリのせめぎあいの中での輝きが、このアルバムにはある。特に7曲目の「翌日」。こんな世界とこんな自分にどれだけ絶望していても、どこかで明日を待っている。諦めたくないその僅かな思いが、僕らの心に希望を灯すのだ。
金光裕史(音楽と人)
金光裕史(音楽と人)
syrup16gの音楽は逆説的に希望を歌ってくれている音楽だと思っています
「無理して生きてくこともない」
「明日を落としても、拾ってくれなくてもそれでいい」
そう言ってくれることで気持ちが少しは楽になり明日を生きてこれました
これからもsyrup16gは僕の心の中で一生鳴り続けます
あの日駐車場の車の中で泣きながら何度も聞いた明日を落としても。落とさなくてよかった。本当にありがとう。
このアルバムは全体的にギターがドスの効いたジャキジャキ感が強いのに、疾走感のある曲が多いためか聴き疲れしないです。
きこえるかいは、とても好きな曲で、新木場に初めてライブを観に行ったときの1曲目で、それは嬉しくとても驚きました。
シロップは三拍子が似合うとおもいます。ロック調でないにしろ。
この曲はシンプルに良いところが詰め込まれていて、ずっと聴いていられます。
三拍子、コードは3つ、深いギターの音、メロディアスなベース、押し付けのない歌詞などなど。
エビセンと共にとてもスルメ曲です。
僕がSyrup16gを聞いたのはこのアルバムが初めて、ロキノン誌で長めのインタビューが組まれていたのを読んで、なんだか暗い人、暗く出口のないインタビューだな…と思ったことだけを覚えていて、近くのCDレンタルをしている店の試聴機で「クロール」を聞いたのが最初。
一発目からその重苦しさに心を奪われた、まだまだダークなものに触れたことのない中学生の僕はすぐにこのバンドの虜になった。救いを感じさせない、しかし一聴して掴んで離さないキャッチーなメロディ、鬱々としていて、退廃的な遣る瀬無さと理由の分からない心地よさを残してくれる歌詞、このバンドのおかげで僕はその後の音楽人生をかなり変えられたようにおもえる。それは今このバンドとはかけ離れたハードコアバンドをやっている今でもなお変わらない。
当時高校生だった私は、このアルバムを入手し、まず冒頭の「クロール」を何回もリピートして聴いた。CDプレイヤーを鞄に入れて、自転車をこぎながら。当時は飛ばして聴くことも多かった「翌日」も、今となってはその眩しいくらいの希望を正視することができるようになったかも知れない。「きこえるかい」は葬式で流してほしい曲のひとつ。ありがとう、Syrup16g。