coup d'Etat
2002.06.19 発売
COJA-50695
2002年6月にメジャーデビュー作として発表された『coup d'Etat』
後にも先にも、同年代の日本のバンドの作品からここまでの衝撃を受けたことはないと思う。
Syrup16gとの出会いは2000年頃、新宿JAMというライブハウスで、動員も100人に満たない小さなイベントでの対バンだった。
下北沢のハイラインレコードで売られていたインディー音源のカセットテープで、楽曲を聴いたことはあったけれど、ライブを観るのはその日が初めてだった。
内省と諦念感、そこに緊張と狂気が入り混じる、異様な存在感に魅力された。
濁っているのに美しくて、壊れそうで、こんなバンドには出会ったことがなかった。
楽屋で話すと、メンバーお三方とも意外に穏やかで柔らかな人柄が印象的だった。
当時の下北沢界隈のバンドシーンに馴染めない捻くれ者だった僕は、五十嵐さんを先輩として慕うようになり、インディー時代は何度かライブに足を運んでいた。
アッパーな曲は演りたくないと言って、座ってライブをやっていた時期もあった。
それからしばらくして、2002年のメジャーデビュー前後頃、Syrup16gというバンドのスイッチが確実に切り替わるのを目の当たりにした。
このバンドが日本の音楽を変える予感がした。
『coup d'Etat』というアルバムの中に表された圧倒的な才能は、想像を超えるものだった。
メロディ、コード、アレンジ、意表を突く曲の展開は、実験的という言葉では片付けられない絶妙な可能性で成り立っていて、その上で攻撃的に歌われる言葉は、日常や現実を独特な角度の目線と感覚で切り取っていて、過去に誰かが歌ってきた何にも似ていなかった。
同調や集団意識に矛盾を感じ、辟易して孤立してしまいそうな人達にとって、シロップの音楽は心の拠り所となったはずだ。
「神のカルマ」「天才」などの激しい曲にも胸を熱くしたけれど、僕は特に「ハピネス」という曲が好きで、今も時々聴き返してはあの頃の気持ちを取り戻す。
ねえ そんな普通をみんな耐えてるんだ
ねえ そんな苦痛をみんな耐えてるんだ


ホリエアツシ(ストレイテナー)

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“coup d’Etat”のレビュー

  1. 高校入学の時に2万もしたMDウォークマンの衝撃を忘れもしない。
    遠くの高校に通う音楽キチの親友にオススメ1枚貸してと言ったのにその日にチャリで1時間もかけ自宅に8枚も持ってきた衝撃を忘れもしない。
     その中で一番初めに聞いた「coup d’Etat」の衝撃を忘れもしない。
     
    たまげた。思春期もあり性格までも変わる程に影響を受けた。
    明るい歌がもてはやされる時代だったので誰に聞かせても
    「暗すぎでしょ?この人大丈夫?笑」とまで言われ誰にも共感を得てもらえなかったし
    近所のCDショップですら置いてなく取り寄せのお願いをしても
    「syrup16gてタイトルね。で、アーティスト名は?え?名前がsyrup16gなの?笑」
    とまで言われる程に。
    共感を得られないままライブDVDが発売した時会場にファンが沢山駆けつけていることに泣けた。 

    肝心の内容だがタイトル聞いただけですぐに(なーんも借りれなーい!)
    メロディーが浮かぶ位聞き込んだ。ウォークマンが壊れ…MDがぶっ壊れるまで…。
    謝る私に大笑いして喜ぶ友達とsyrup16gが高校時代の思い出だ。

    追伸
    ごめんね五十嵐隆さん。
    あの当時お小遣いが2,000円しかなくてCD買えませんでした。
    大人になった今ようやく買えました。
    あなたに救われました。

  2. イントロから不穏なギターが響き
    音数少ないドラムがリズムを刻み
    哀しくも美しい声で、
    「愛されたいなんて言う名の幻想を消去して、沈むよ嵐の船」
    と始まる

    歌詞カードを貪るように読み、
    ああ、これは僕のバンドだ、
    僕が聴きたかったのはこういう曲なんだ、
    本当にリアルなバンドが現れた、
    そう思った。

    バンドは丁度遅死を遂げ、細々とライブ活動を続けていたところだった。
    毎日の音楽は全てシロップになった。
    いつの間にかシロップしか聴けなくなっている自分がいた。
    ライブにひとり足を運び、
    ネットで未発表の音源を貪るように探しては、
    次の音源の発表を待ちわびた。

    今考えると、
    シロップの音楽は、渇ききった自分に落ちてきた一滴の水だった。
    けっして潤わない、
    でもその場は凌げるような、
    明日までもたない、満たされない、
    一滴の水だった。
    やっと見つけたのに、
    喪失に向かっていることを感じながら、
    何とかやり過ごしていた。

    今や時間は流れて、僕は歳を取った
    喪失は薄まり、
    バンドも戻ってきた

    もう今の僕は、
    あの頃ほどに渇いてはいないけど、
    それでも時々、このアルバムをプレーヤーにのせる。
    不穏なギターが響くと、
    あの頃の自分を思い出して、
    少し照れ臭い、
    胸がチクチクする。

    人生は美しい。
    素晴らしくないけど美しい。
    シロップの音楽と共にあった苦しい日々は、本当に美しかった。

    死ねない劇薬をありがとう。

  3. Syrup16gの作る曲は、
    「”地獄”に届く音楽」であると最近気づいた。
    人生のどこかで”地獄”を見たことのある人にとって、
    シロップはその”地獄”にまで届き、
    鳴り止むことなく、励ますわけでもなく、
    ただ人のそばに居続ける。
    かくいう私も”地獄”でシロップが鳴り止まない人間の一人である。
    そんなSyrup16gの、若さゆえの荒々しさが詰め込まれたアルバムがこのCoup d’etatである。
    AnotherDayLightのどこか気だるく物悲しい曲調からはじまり、
    自分という存在に対して居直るMy Love’s Sold、
    どうにもならないやるせなさと諦念の募る神のカルマ、生きたいよ、手首と続く。
    遊体離脱のラストとVirgin Suicideで
    このアルバムは一度死ぬ。
    が、
    次の天才であっさり息を吹き返して、
    その後も何事もなかったように反旗を翻しつづける。

    何度聴いても曲の順番に痺れる。
    個人的な話題で恐縮だが、
    私がはじめてシロップに触れた曲は遊体離脱だった。
    それまでロックにミリ単位の興味すら湧かなかった私にとって、
    それこそ頭の中で「クーデター」が起きたような衝撃を受けた。
    私はライブで遊体離脱が聴く日が来るまで死ねないんじゃないかとまで思いはじめている。信者なので仕方ない。

  4. 誰とも馴染めず日々を送り抜いた高校時代の通学路で、ひたすら聴いていたのがこのアルバムだった。
    イヤホンの中で奏でられる、集団意識から弾かれた人間が苦しみ悶えながら閉鎖された世界を這い蹲ってでも、惨めにでも生きようとする様相に、私は同調し、それだけを頼りに何とか生きてきた。
    今は”集団から弾かれた意識”から解放されましたが、それでもこの円盤が必要になる時があります。
    syrupは毒と苦悶に満ちた精神世界から精製された甘美な蜜の味で、まさにこのアルバムが象徴してるなと思ってます。

  5. スクールカーストという概念がある。容姿や趣味、コミュニケーション能力などを基準として、優れた人間はヒエラルキーの上位に立ち、そうでない者は下層に押し込められ、それぞれに見合った相応の学生生活を余儀なくされるというものである。
    一般的にはこのカーストが低い人間ほど不遇な生活を送るものだと考えられがちだが、
    しかし思うに、上位の人間は上位の人間で、下位の人間は下位の人間同士でつるみ、ちゃっかり良好な関係を築き、なんだかんだでうまくやっていくものである。
    本当にどうしようもないのは上層でも下層でもなく、そもそもハナっからカーストに組み込まれていない、組み込まれることを良しとしないはぐれ者の人間だ。
    かくいう私がそうだ。そしておそらくはこのレビュー欄に思いの丈を綴った他の多くの人もそうだろう。そしてそんなはぐれ者たちに必要な音楽こそが、彼らだ。

    鬱ロックと呼ばれるバンドは世に数多あれど、彼ら、Syrup16gほどに特異な存在感を放つバンドは他にない。
    名曲『生活』に惹かれ、『COPY』で彼らを知った私が次に手に取ったのが、メジャーデビュー1発目となる本作『coup d’Etat』だった。
    初めて聴いた時、「ああ、彼らは自分にとってとても大切なバンドになるな」と確信した。これは一生モンだ、と。根拠もなく。
    『coup d’Etat』は私の人生と根性を大きく捻じ曲げた。それはまさしく無味乾燥な日々の中に降って湧いたクーデターであり、心を甘く腐らせる劇薬のようなシロップだった。

    彼らの特徴・魅力として真っ先に挙げられるのはやはり歌詞、というか五十嵐隆の世界観だが、しかし言うまでもなく、それだけのバンドでは決してない。
    シンプルな3ピース編成から繰り出されるごくオーソドックスな、どこまでも耳馴染みのいい歌モノロック。
    門外漢ゆえ専門的な音楽知識にまで踏み込んだ評価はできないが、そんな素人の目から見ても彼らの楽曲が優れたものであることははっきりと分かる。
    絶妙なコード感や不協和音をどこまでもポップなメロディに落とし込む卓越したセンスは変わりなく、
    その上でメジャーの恩恵もあってか、サウンドはより太く強靭に、演奏はよりダイナミックに。
    そして歌詞はより鬱屈と倦怠と退廃の度を深め、まるで濁った水の中に沈んでいるような、圧倒的なまでの閉塞感に満ちた重たい雰囲気が全編を通して支配している。

    「愛されたいなんて言う名の幻想を消去して 沈むよ嵐の船」
    「ただのノスタルジー 生ゴミ持ち歩いてんじゃねえ」
    「誰もお前を気になどしていない 身代わりならうなる程いる」
    「行く場所なんて別にねえ 今さら何もする気ねえ 生きてるなんて感じねえぜ」
    「ねえ そんな普通を みんな耐えてるんだ ねえ そんな苦痛を みんな耐えてるんだ」
    「友好的なのは 心の奥に本当の事を隠すから」

    これである。あまりにも赤裸々で、飾りっぽい言葉選びやドラマチックな詩情など一欠けらも感じられない。
    うんざりするような不安と怠さと諦観と絶望と、それでも捨て切れないなけなしの希望が、ただ当然のものとして生々しく歌われている。
    ありのままの自分であること、ただそれだけのことに疲れ果ててしまった私のような人間にとっては、一言一句余すところなく魂を抉る必殺のパンチラインだ。
    そこまで言っていいのか。そんなことを言ってくれるのか。自分でも判じ難い不明瞭な憂鬱に輪郭が与えられたようで、月並みな表現だが、救われたように思ったのを憶えている。

    この文章を書きながら、また本作を聴いている。
    音の一つ一つが、歌詞の一言一言が驚くほど深く染み入り、気付けば小声で口ずさんでいる自分がいる。
    かつて抱いていた、もう感じなくなってしまった想いの残骸が、今この時のものであるかのように鮮明に浮かび上がってくる。まるで塞がりきらない傷痕を開かれるように。

    キラキラした前向きなメッセージや風通しの良いポップミュージックが幅を利かせる昨今にあって、彼らは昔から今まで、暗く重く、そして抗い難い重力を纏う特異点として在り続けている。
    他の何を聴いていても、結局は彼らに戻ってきてしまう。唯一無二の感覚だ。
    彼らは私たちに進んで手を差し伸べたりはしないし、殊更に突き放すこともない。ただ等身大の、ありのままの生を歌った歌として、心の奥の一番深く柔らかいところに寄り添ってくれるだけだ。
    だからこそ私たちは彼らに救われたし、今も救われているし、これからも救われていくのだ。